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インディ500の歴史(抄) その3

1961: 名レース
この年のレース、トップは7人のドライバーが20回交代したそうです。
3回目のピットストップで、Eddie Sachsは同じくトップを争っていたA. J. Foytに追いつける!と思ったんだそうです。だけどFoytのその前のピットストップでは、燃料がうまく給油できてなかったようで、すごく軽い状態で走ってたんだって。
で、残り16周のところで、Foytはスプラッシュ&ゴーで入ってきました。
で、その時点でSachsは30秒前にいたんだって。
だけどそのSachsは、残り3週って言うところで右リアタイヤを交換しにピットインすることになってしまって、結局、Sachsは、初優勝を遂げたToytから8.28秒遅れでゴールしたそうです。

1962: 150mph突破
この年、メインストレートのレンガ部分もアスファルトになったんだそうですが、そこでParnelli Jonesが150mphを予選で越えた、初めてのドライバーになりました(150.729mph)。

1963: 見所はオープニングラップ
予選2位でスタートのJim Hurtubiseがスタートしようとしたら、スーパーチャージャーエンジンのそのマシンはスタートが遅れて、1コーナーでは7位になってしまいました。
が、その1周目のターン4につくときにはもうトップを走るParnelli Jonesの後、2位に戻ったそうです。そしてParnelli Jonesのインについて、1周目を1位で終えたHurtabiseに、観客は大喝采
その次の周にはまたParnelli Jonesがトップに戻ったのですが、また3周目にはHurtubiseが、1周目と同じ抜き方をしてトップに立ちました。
その後、結局Hurtubiseは徐々に遅れてしまいましたが、その1周目の印象はやはりとても強かったようです。

1965: 初のリアエンジン車の優勝
この年はJim Clarkが200周中190周でトップに立ち、優勝。リアエンジン車初の優勝でもありました。
Jim Clarkのレースの平均速度150.686mphは、数年前のParnelli Jonesの予選よりも速くなってます。

1966: チビのスコットランド人が優勝かと思ったら。
Jackie Stewartは残り9周までレースをリード。結局止まっちゃったんですが、彼はマシンを押してゴールしようとしました。当時のヨーロッパではそれがOKだったからなんだって。
だけどアメリカではそれはダメなんだと教えられた後、Stewartはマシンを押すのをやめて、観客に手を振りながら歩いていったそうです。
なんでも油圧が0になっちゃったからリタイアしたそうです。そしてそれを公言してはばからなかったそうな。
優勝はGraham Hillでしたが、Jackie Stewartはルーキー・オブ・ザ・イヤーをとったそうです。

1967: ターボ車が優勝…まであとちょっと
Pratt & Whittneyガスタービンヘリコプターエンジンで4駆のマシンに乗ったParnelli Jonesは、196周までトップだったそうですが、リアのベアリングが壊れてしまってマシンが動かなくなってしまって、トップはA. J. Foytに奪われてしまいました。
最終ラップで多重クラッシュが起こってしまったようですが、結局A. J. Foytが優勝。

1968: またしても
前年に引き続き、またターボ車がゴール直前に勝ちを逃してしまいました。
今度はJoe Leonardが乗った、Lotusのマシン(もともとは故Jim Clarkのものだそうだ)が残り8周で火が出てしまったそうです。
ここでトップ立ったのはBobby Unserで、彼は優勝をしたのですが、実は彼はギアが壊れててトップギアしか残ってなかったのにピットインとかもこなしていたんだそうです。
すごいわ~。

1969: マリオ・アンドレッティの日
予選をターボのLotusでクリアしようとしていたMario Andrettiは、プラクティス中にクラッシュ、炎上して頬に火傷をしてしまいました。
結局、型落ちのBrawner Hawkで予選はフロントローに収まります。
が、その頬の火傷のままフロントローの記念写真に撮られて、それが残っちゃうのは恥ずかしい!と思ったマリオ君、双子のAldoさんをフォトセッションに送り込んだそうな。
いいんか、っつか、双子でよかったね、っつか、そんな写りを気にしても(以下略)。
決勝では、AndrettiとA. J. Foytが序盤はリード。でもFoyt車のターボが壊れたので下がってしまいましたが、今度はLloyd Rubyが上がってきました。が、Rubyは今度はレースの半分手前で脱落。ピットインの時にもう給油が終わったと思ってスタートしたら、まだ終わってなかったっていうミスだそうです…。
そんで、Andrettiはそのまま優勝したんだそうですが、最後には水温が急に上がっちゃって大変だったんだそうです。
結局、ガレージでマシンをチェックしてみたら、ミッションのオイルとかはからっからになっていたんだそうな。

1971: 大人気ない
空力用のパーツってねじでとめてあるのとかってダメで、「車体の一部分でなければならない」ことになってたようですが、マクラーレンはエンジンカバーにリアウィングを取り付けて「車体の一部だもーん」ということにして、マシンを作ったんだそうです。
んで、Roger-Penskeからマクラーレンの車で出場していたMark Donohueが予選を177.087mphでトップ通過…と思われたら、マクラーレンのPeter Revsonが178.696mphを出して、彼がポールに納まってしまいました。

1972: 速度アップ
ボルトでとめる形のウィングが解禁されたので、予選のベストの速度が26mphも上がったそうです。
この年のポールはBobby Unserで、195.940mphが4周の平均で、196.678mphが1周のラップだそうです。

1973: あとちょっとで200mph
予選の初日、結構冷えてて雨も降りそうとかいう天候だったようですが、マクラーレンのJohnny Rutherfordが199.071mphを記録したそうです。
本人、「なんかおっこっちゃったりなんかでもしてなければ俺、こんなに速く走れないと思うんだけど!?」って思ったそうな。

1977: 200mphを越えたのはSneva
この年、舗装をしなおしたそうなんですが、そのコースでTom Snevaが公式に、予選での200mphを越えました。
Gordon Johncock、A. J. Foyt、Mario Andretti、Johnny Rutherfordも200mphを越すタイムを記録したんだそうですが、彼らはプラクティスでしか記録できてないんだそうです。
Snevaは、予選1周目に200.401mph、2周目には200.535mphを記録。
ですが、3周目と4周目には200mphを越せなかったようです。

1977: 女性が初めてインディ500の予選を通過&Foyt4勝目
女性で、初めてインディ500の予選を、Janet Guthrieが通過しました。
予選は188.403mphで通過。決勝は27周でメカニカルトラブルが出てリタイアになってしまったようです。
優勝はA. J. Foytで、4勝目を記録。
彼は、優勝記念でペースカーに乗ってコースを回るとき、スピードウェイのオーナーのTony Hulmanと一緒に回ったんだそうです。
ちなみにこの年の10月27日、Hulmanは76歳で亡くなったとのこと。

1980: 「ヘイお兄ちゃん、乗ってかない?」
この年の優勝はJohnny Rutherfordで、3勝目を挙げたんだそうですが、彼がヴィクトリーサークルへ行く途中、たまたまルーキーのTim Richmondが、ガス欠で止まっちゃったマシンの脇にたって、ピットの入口のところにいたんだそうです。
で、RutherfordはRichmondとピットが隣同士だったので、インディ500の期間中にすごく仲良しになってたらしいんですよ。
そんなもんで、「おい!乗っていくか?」と、9位でゴール扱いになってるRichmondをマシンのサイドポッドに乗っけてピットまで連れてってあげたんだそうです。
ちなみにそのRichmondはルーキーオブザイヤーだったそうです。