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インディ500の歴史(抄) その1

私は基本的にオーバルレースはそんなに興味はないのですが、インディ500の歴史な記事が面白かったので、ざっくり訳してみました。

1911: 第1回インディ500はRay Harrounが優勝
同時の開催母体は、「デカいレースを1回でどんとやろうじゃないか」ということにして、「500マイルってなんか響きがカッコ良くね?」ということで、第1回インディ500を開催しました。
1911年の5月30日(アメリカのMemorial Dayですね)の朝、40台がスタート。
ほとんどは、市販車ベースだったようです。が、優勝したのはやっぱり、レース用に作られた車だったそうです。
このとき優勝したRay Harrounはメカニックもできるドライバーだったそうですが、彼が初めて車にミラーをつけた人のようです。
それまではミラーもなく、当然スポッターなんかもいないだろうことなので、その代わりが同乗者だったわけなんですって。
このときのミラーのサイズは3x8インチ(7.62cm×20.32cm)だったんだって。
意外とデカいものではなかったのですな。
Harrounはレース中盤にCyrus Patschkeと交代したようですが、また彼が交代して、フィニッシュしたそうです。
このときの記録は、500マイルを6時間42分。平均速度は74.602mph(120km/h)。

1912: DePalma君、押しの一手
イタリアからの移民のRalph DePalmaは、メルセデスで出てたんだそうですが、彼は、最初の198周のうち196周をリード。
2位に5周半の差をつけて走っていたそうです。
が、残り1周と1/4のところでマシンが壊れてしまい、彼と同乗のメカさんはマシンを降りて、よいしょよいしょと押し始めたんだそうです。
もちろん彼は2位を走っていたJoe Dawsonに抜かれてしまったそうですが、DePalmaはDawsonを一番に祝いに行ったそうです。

1914: 「外人ドライバー」が平均時速100マイル弱
フランス人のGeorges Boillotが、プジョーで、予選で99.85mphを記録したそうです。
彼はこの時しかインディにはこなかったらしいのですが、過去2回フランスGPで優勝したりなんかもしてて、当時のヨーロッパで一番のドライバーとみなされていたらしいです。
そんな彼も2年後、1916年5月20日に、フランスのドイツ国境付近のVerdunでの戦いで、戦死してしまったんだそうです。
第1次世界大戦の「ベルダンの戦い」http://ww1.m78.com/honbun/verdan%20siege.htmlってやつのあたりのようです…。

1919: Wilcoxが100マイルを越える
第1次世界大戦終了後初の開催だった1919年、ポールポジションはフランス人のRene Thomasで、予選の平均時速は104.78mph(168.598kph)だったそうです。
このとき100マイルを越えたのはThomasと、予選2位から優勝したHowdy Wilcoxを含め、6人いたそうです。

1921: DePalmaがラップリーダー記録を伸ばしつづける
1920年も優勝したイタリア移民のRalph DePalmaですが、1921年も前年に引き続きポールポジション
2年連続ポールも初だったようなのですが、この年も112周をトップで走り、彼のキャリアでのトータルのラップリーダー記録を612周にしました。
この記録は66年後の1987年、Al Unserに更新されるまで残っていたそうです。

1923: 初めての複数回優勝ドライバー
Tommy Miltonが始めて、インディ500で2回勝ったドライバーになりました。
この年からメカニックを同乗させなくてもよくなり、出場24台中23台はシングルシーターになったんだそうです。
この年は6人のドライバーが28回トップをかわり、1960年までこのレースリーダー交代の記録は破られなかったそうな。
この年、Miltonは自分だけが500マイル走ったのではなくて、彼が手の水ぶくれとかを治療してもらってる間、1919年優勝のHowdy Wilcoxも48周走っていたそうです。

1924: 優勝者2名
Joe Boyerは、自分のマシンはトラブルで遅れちゃったからって、111周目、4位を走っていたチームメイト、Lora Corumのマシンに乗って、177周目にはトップにたって、平均時速98.234mph(158.065kph)で優勝。
この優勝は、スーパーチャージャーがついてるマシンでの初の優勝だったそうです。
ちなみに、通常はドライバーが途中で交代しても、交代した方のドライバーは優勝したことにはされないんだそうですが、チェッカーをうけちゃったのがBoyerなので、今回は特別に、スタートしたCorumといっしょに、2人で優勝ってことにされてるんだそうです。

1925: 平均時速100マイル突破
手に酷い水ぶくれを作って、21周、Norman Battenにドライブを交代してもらったけれど、Peter DePaoloはスーパーチャージャーついてるデューセンベルクで優勝。タイムは1911年の優勝タイムから1時間15分削って、4時間56分39秒46、平均時速は101.127mph(162.72kph)。
初めて5時間を切り、レースの平均時速も100マイルを越えてきたそうです。

1926: 無名のドライバーが優勝
このときはまだ無名だった、23歳のFrack Lockhartが優勝。
このとき、彼はBennet Hillのリリーフドライバーとして来ていたそうなのですが、チームのオーナードライバーのPeter Kreisが肺炎になってしまったので、彼の代わりに出場。
予選では115.448mph(185.764kph)を出し、雨で400マイルに短縮されたレースでは、2回の給油ストップで優勝したそうです。

1927: 予選での平均時速が120マイル
前年優勝のFrank Lockhartが、初めて、予選で平均時速120マイルを越したドライバーになりました。
4周での平均は120.100mph(193.249kph)、一番速かったラップでは120.918mph(194.566kph)になったそうです。
そして、彼はもう一つ、最初の200マイルずっとレースリーダーでいるという記録も作ったそうです。
Lockhartがピットインしたところでオランダ人のBaumannがトップに立ったようですが、91周目にはまたLockhartがトップに返り咲きます。
そんな彼ですが、120周目にロッドが壊れてしまったので、トップからは落ちてしまったそうです。
ちなみにLockhartは、この翌年、デイトナビーチで速度記録に挑戦して事故死してしまったそうです。

1928: 大記録!…しばらくの間。
Leon Duray(本名George Stewart)が4周の平均速度122.391mph(196.936kph)でポール獲得。一番速かったラップは124.018mph(199.554kph)。
1930年にレギュレーションが大幅に変わってスーパーチャージャーの車が参戦できなくなったこともあって、彼の記録は9年間更新されなかったそうです。

1930: 映画のようなお話
ケガから復帰したHarry Hartzっていうドライバーが自分の車で、自分でエントリーしようと思っていたのですが、予選日、24歳のBilly Arnoldに「お前乗れ」とドライブさせることにしました。
そうしたら彼はポールを獲得。
そして、ポールからスタートして、200周のレースのうち後半の198周をリードし、2位に5周の差をつけて優勝。
レースラップで、リリーフドライバーの手を借りずに一人で走りきったドライバーとしては初めて、レースでの平均時速が100マイルを越したのがこのレースだそうです。
彼の作った「200周中198周レースリーダー」という記録は、今後も破られることはないでしょう。