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ティーマンの事故から10年 その4

さてティーマンのインタビューの4回目。これが最後のパートです。最後はプライベートのパートですね。
私も、お子さんが二人いるのは知ってたのですが、写真みたのは初めてだったので嬉しかったです。


マルセル・ティーマンがいかにして新しい人生を作ったか
事故の後のフラストレーションが落ち着いたのちには、生活に対しての意欲が戻ってきたマルセル・ティーマン。転居、結婚、新しい仕事――「すべて一気に起こりました」

2010年の夏にバート・アイブリングのリハビリテーションクリニックから退院した後には、マルセル・ティーマンの人生のオプションからモータースポーツという選択肢は無くなってしまっており、やらなければいけないことが特にない状態になっていた。しかし人生は、そういう時に面白い出来事が起こるものだ。
「私は、モータースポーツのことしか頭にないタイプのドライバーではありませんでした。人生では常に、他のことにも興味を持っていたんです」とティーマンはMotorsport-Total.comに語った。

パルマ・デ・マヨルカへの転居
ティーマンはまずモナコから転居をすることを決めた。彼は事故の前からすでに転居を考えていた。
「ドライバーとしては、モナコは住むには便利な場所でした。自分以外にもたくさん、週末に働いて、平日に休んで体調と精神面を整える生活のアスリートが多く住んでいました。しかし自分には税金面のメリットもそうあるわけでもなく、事故の前からでも、家族と過ごすのにいい場所だと思っていたわけでもないので、引っ越すことを決めました。
バルセロナも興味がありました。あとはイタリアのどこかとか、ドイツに戻ることも考えていました。実際、事故の1週間前にはバルセロナに物件を見に行ったんです。だけどそこで、あの事故が起きてしまった」
彼が受けたい治療を受けられる設備がモナコにはなかったということも、モナコから転居する大きな理由となった。

そして彼は、母親がすでに居を構えていたマヨルカへ行った。幸運にも、マヨルカには彼が必要としているものがすべて徒歩圏内にあり、彼が必要としていた治療もその後2年半の間受けることができた。
ティーマンは、「マヨルカに来たことは正解だったと思います。もうここから離れたくありません」と新しい生活のスタートがうまくいったことを喜んでいる。

家族と仕事
「離れたくない」と言っているうちに彼には新しい家族ができて、離れたくても離れられなくなっている。事故から1年たった時に、彼は現在の妻となる女性と、友人の結婚式で出会うことになった。この出会いも、彼の状況にぴったりと嵌る出会いだったのだ。
「彼女もどこか別の場所に引っ越したいと言っていたので、彼女にマヨルカに来てもらいました」
ほんの数年の間に、結婚、家の新築、二人の子供と、ティーマンの周りには人生のピースが集まってきた。彼は常に、家族を大事にする男で、彼が昏睡状態にあるときも、彼のそばには常に家族が付いていた。
また、彼がレーシングドライバーから「転職」をした時も、家族がいた。
モータースポーツのキャリアの後に何かできる仕事を探していたんです。何も仕事をしなくても生活できるほど稼いでいたわけではないですからね。何か仕事が必要でした。そのため、母と、自分の二人の妹がすでに運営していた老人介護施設と幼稚園に出資はしていたんです。今はこれが自分の主な仕事ですね。現場については別の人たちが入って運営してくれています。自分たちがやるのは、施設を建設すること。これも、チームとして動くことがとても大事な仕事ですね」

それ以外には、ティーマンが一番結果を残したマンタイレーシングと縁があったポルシェとではなく、メルセデス・ベンツとブランドアンバサダーとして契約をしている。これはあくまで副業という程度で、彼の出番は限られている。やはり、人々がメルセデスというと連想をするのはクラウス・ルドビックやベルント・シュナイダーで、マシンをドライブすることもできるからだ。

ティーマンはメルセデスジュニアとしてFIA GT選手権DTMに参戦していたが、ほとんどは一年落ちのマシンでの参戦だったので、成功するチャンスというのは少なかった。また1999年にメルセデスル・マン24時間での総合優勝を狙いに行った時は、多くの人が知っているとおり、惨憺たる結果に終わった。

忙しいけれども幸せな生活
マルセル・ティーマンはやることがないというわけではない。
「毎年何かしらあるんですよね。事故があって、妻と知り合って、彼女がマヨルカに引っ越してきて、そして結婚して、すぐ一人目の子供が産まれて、家を建ているうちに、二人目もできました。だから落ち着いた、っていう気は全くしないんですよ」とティーマンは笑いながら語った。
「今は愛する、素晴らしい妻と二人の子供がいます。上の子供、娘は5歳で、息子は3歳です」
ティーマンは、彼が事故に遭わなかったら現在の妻と知り合うこともなかっただろうということを知っている。

「家だけでなく、介護施設のプロジェクトとメルセデスのブランドアンバサダーの仕事もありますし、とても満足しています。今までは自分の仕事はレースだけでした。できるだけレースを走るということだけ。今の仕事は家族の面倒をみること――いつか子供たちが、自立して自分の生活を送れるように育てていくこと。素晴らしい仕事ですよね」

彼の人生に欠けているものはある。
「もちろん、まだモータースポーツ、耐久レースもしてみたいと思っていますよ。だけど、それは無理なんですよね」
ティーマンは自分でも残念ながらよくわかっているのだ。

そして、ティーマンからのメッセージは、アレッサンドロ・ザナルディからのメッセージに似ているものだった。
「事故がなければ、今の家族を持つことはできなかったと思います。悪いことの後には良いことがやってくるものですね。だから、同じような状況の人がいたら励ましたいと思います。諦めないでほしい。絶望的な状況からでも何か新しい、良いことが起こる可能性はあるのだということです」


最後が「ザナルディ」という話で終わっていましたけど、今、頭部外傷で昏睡状態に置かれているザナルディのことも考えてしまいますね…。ザナルディも、なるべく良い状態で意識が戻るように心より祈っております。