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20 Years After その1

さて、今年のル・マン24時間で、ピーターがメルセデスで空を飛んでから20年です。
大体毎年この時期になるとピーターの記事が出てきますが、今年はより多いような気がします(笑)

まずAutocarの記事からざっと訳してみたいと思います。

分析記事:なぜ1999年がメルセデスル・マンに参戦した最後の年なのか
マーク・ウェバーメルセデスCLRが時速およそ200マイルで宙を舞ったとき、メルセデスル・マンから撤退することを決めたように見えた。しかしその事故は繰り返された…
著:Damien Smith (2019年6月13日)

「こんにちは。私はピーター・ダンブレック。空を飛べます」
自己紹介のつかみとしては最高だろう。
大クラッシュを起こした後の若手レーシングドライバーがそのような軽口をたたくことは珍しくないだろう。例えば兵士のように。
ル・マンでの事故から数か月間の彼の精神状態について、またこのキャッチフレーズを口にしていたことについて、20年がたった今ピーター・ダンブレックが語る。

土曜日の夕方、ダンブレックのマシンが浮き上がり、コースわきの木に向かって落ちて行った――そしてそれはテレビで生放送されていた――事故からすでに20年が経過したというのが信じがたいほどだ。現場で見ていた我々は最悪の事態と、メルセデスチームが危機に瀕するというホラー的なストーリーを想像していた。

メルセデスル・マンでも歴史のあるチームだ。歴史といっても、ひどい歴史だが。
1955年にピエール・ルヴェーのメルセデス300SLRが他車に乗り上げ、メインストレートの観客席に向かって飛び込み、ドライバー本人とその他80人以上が亡くなった。この事故は、現在においてもモータースポーツ最大の悲劇である。

その43年後、メルセデスのドライバーたちが空を飛ぶことになった。しかし前回と違うのは、不運ということではなく――設計時からの空力面での問題が、ドライバーにはなすすべもなく空を飛ばせてしまう、ということだった。

さらに、ダンブレックのクラッシュはこのマシンで初めて起こったものではなかったことが問題を深める。2回目でもない。レースウィークで3度目だったということは、メルセデスの長い歴史の中では最も恥ずべき事件の一つだろう。

忘れることができないル・マンのレース
1999年のル・マン24時間は、メルセデス以外にも総合優勝を目指すファクトリーチームがトヨタBMWアウディ、日産、パノスとエントリーし、近年ではまれにみるメーカーチーム数のため、間違いなく歴史に残るレースになるだろうと思われていた。その中でもメルセデスの、すらっとした見た目のCLRは、総合優勝に近い存在と見られていた。

しかしメルセデスにとって、「何かがおかしい」という兆候が表れたのは木曜日の夜のプラクティス中に、マーク・ウェバーインディアナポリスで大きいクラッシュを起こしたということあった。噂では彼のマシンは空を飛んだ、という。

ウェバーの自伝の中で、彼はその恐ろしい体験を生々しく語る。

「全てが一瞬のうちに起こった。飛行機が離陸していくようだった。実際起こったことも飛行機の離陸と同じで、自分は多分時速300キロ近くで走行をしていた。慌ててブレーキをかけたけれど時すでに遅し。空が見えて、地面が見えて、また空が見えて……これで最期かな、木に突っ込んだら自分は死ぬな、と思っていた」

事故当時、ウェバーはアウディのフランク・ビーラのすぐ後ろをドライブしていたという。しかし目撃者や、映像などの証拠もなく、詳細はあくまで大まかなものだった。プレスに対しては、メルセデスはあくまで噂だと軽く流し、事故後動揺こそしているが奇跡的に無傷だったウェバーはコメントできない、と言った。

ウェバーの自伝では、メルセデスのショッキングな対応について触れられている。「チームは、何が起きたかという自分の説明を受け入れなかった。彼らの反応は「マシンが空を飛ぶようなことが起きるわけがないだろう?」というものだった」

2度目の事故
当時まだ23歳でプロドライバーとしてのキャリアを歩み始めたばかりのウェバーは、また同じマシンに乗り込んだ――レーシングドライバーらしく。土曜日の朝のウォームアップセッションで彼がコースに戻った時、そして今度はTVカメラがこの事故を捉えていた。ミュルサンヌに向かうウェバーがクライスラー・バイパーの後ろについたとき、考えられないような出来事が起こった。
ウェバーが、また宙に舞ったのだ。

ウェバーの著書にはこうある。「何が起こったのか信じられなかった。また起こるなんて考えていなかったから。あの時、自分の頭の中に2つのことが浮かんだ。1つ目はチームのこと。『あのクソ野郎どもは何でこんな車を作りやがったんだ?』そして2つめは『今度こそダメかな。痛いのは嫌だから、早く終わってくれないかな』」

見ていた者たちは、ウェバーが、ルーフ側から落ちたマシンから出てきたときの表情を忘れることはないでしょう。2回も空を飛ぶような事故に遭い、飛んで行った先で樹に突っ込むようなことも、観客を巻き込むようなこともなく済んだ。なんという幸運か。

ほとんどの関係者は、メルセデスはレースから引き上げるだろうと考えていた。しかし土曜日の午後、メルセデスは2台のCLRがスタートをした。

このチームの危機に、メルセデスはF1カナダGPのためにモントリオールにいた、当時のマクラーレンメルセデスの技術面の責任者だったエイドリアン・ニューウェイにまで電話で相談をした。ニューウェイのアドバイスはレースをせずにすぐ撤退をしろということだったが、このアドバイスは無視された。

傲慢さか、それともマシンに問題があるということを否定したのか。いずれにせよ、撤退をしなかったことは驚くべきニュースだった。撤退をしなかったが他のどのチームでもなく、メルセデスだからだ。1955年の事故のことはまだ人々の記憶に残っていたにもかかわらず、過去は無視されたのだ。

ウェバーと同様に、ダンブレックもまだ若く、そして撤退を議論するよりは、レースを続ける野心があった。なによりもこのマシンは速くて、優勝を狙えるマシンであるということが、撤退をすべきだという常識論に勝ってしまったのだ。

レース開始から75周目、ダンブレックは3位を走行中、彼の前を走るトヨタのうしろについた。そして事故が起こった。

インディアナポリスに入る手前、CLRが浮き上がるところをカメラが捉えた。飛行機の離陸のようだった。このマシンは3回宙返りをし、コースサイドのバリアも越えて、木々の中に消えていったように見えた。しかし幸運にもダンブレックはタイヤを下に、最近松を刈って更地にしたばかりのところに着地した。彼もウェバーのように、無事だったのだ。

ダンブレックはその日のことを語る。「空が見えたので何が起こってしまったのかわかりました。そのあとは救急車に乗せられるストレッチャーの上で横たわっているところまで記憶がありません。次に思ったのが、手足の感覚はあるか?ということ。メディカルは、脊椎に損傷があったらいけないということで、私を固定していたんです。ですが腕とつま先を動かしてもいいと許可をしてくれたので、無事に動くことを確認できました」

その時点から数日間、ダンブレックは記憶があいまいだったと言う。「あの事故をTVで初めて見たのは翌週の日曜日、リンカンシャーに住んでいた姉の家で観たんです。『最悪だな』って思いましたね。またレースの次の月曜日は、電話が鳴りやまなかったですよ。今みたいにSNSがあったらどんな騒ぎだったでしょう」

過去を振り返ってみると、ダンブレック自身、当時の彼は強いショックを受けていたに違いないと考えている。しかし、メルセデスのチームドクターは彼の状態を軽くチェックをしただけで、病院へ連れて行くこともなかった。それが彼にどんな影響を与えたと考えられるだろうか。

「人生でも奇妙な時期を過ごしたと思います。レースを止めるとかは考えたことはなかったですね。むしろその逆でした。何というか『無敵』っていう感じで過ごしていましたね。まだあの頃は若くて、結婚もしていないし、子供もいない。だから人生でリスクを冒すことが今ほど怖くないと言うのもあって、いろいろなことをやりました。バカみたいなことでも、やってみたいと思った事は何でもやった。そして、全部無事にやりすごしてきました」

ル・マンの後にダンブレックはレースの契約があった日本に戻り、脚光を浴びない場所に戻り、レースだけでなく自分を危険に晒しながら生活をしていたと語る。現在は結婚をして子供も生まれ、プロのドライバーとして成功を収めているダンブレックだが、事故後数か月の間アドレナリンラッシュが続いていたという。

「あの事故で変わったんだと思います。あの後数か月は精神的に影響があったと思います。ほとんど日本国内でですけど、本当にバカみたいなことをやっていました。公道で、また空を飛ぶんじゃないかみたいな事故も起こしかけました。もちろん無事ですけれど」

そしてその後ダンブレックは、またメルセデスをドライブすることになった。

「悪いPRなんてないと言われますが、あの事故は自分のことを有名にしてくれましたよね。自分が起こしたわけじゃないですけどね。あの時はマシンに乗っているだけで、何かできたわけでもない」

「マークと自分はあの事故について別の受け止め方をしていたと思います。去年の夏に彼の著書を読んで、彼視点の話というのを初めて知りました。自分はあの後『まあまだ生きてるし、やれるだけやってみようじゃないか』というようなことを感じていました。メルセデスとの契約更新の時に、激戦だったDTMのシートをオファーされた。あの事故がなければあのシートは得られなかっただろうと思いますよ」

メルセデスのチームについては、あのル・マンでの事故の後に職を失ったものは誰もいない。推測ではあるが、奇跡的にも、あの事故で亡くなったものがいないからであろう。しかし1999年のル・マン24時間メルセデスの歴史の中でもひときわ暗い事件であり、社内の誰もが忘れたいものだろう。

1955年から1999年前での間、メルセデスは1989年のグループCカー時代にザウバーと組んで総合優勝を果たした。しかし1999年の事故の後、メルセデスが再度ル・マン24時間に現れることはもう二度とないだろうと考えることは公平な見方だろう。


なんかこういろいろと1999年の出来事が脳内によみがえってきますね…。
(ちょっと口には出しづらいこともある 笑)
でもピーター、あの事故の後も元気でレース続けていて、今はもう主にニュル24時間とかVLNですけど仕事があって良かったです。
しっかり者の嫁さんとかわいい子供2人に恵まれていて本当に良かった。
またニュル24時間で会えるのを楽しみにしています。