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英Autosportの記事:The valued gaijin guide lost to tragedy

2023年の7月7日に、英Autosportにピーターが舘信吾選手との思い出を語る特集記事が掲載されました。
ざっと和訳しようと思います。


「悲劇的な死を遂げた、大切な『ガイジンドライバー』のガイド役」
ピーター・ダンブレックと彼、舘信吾は1年しか同じレースに出ていないけれども、親しみやすい性格をしており、将来のスターとなっただろう舘のことはダンブレックに強い印象を残している。舘の不慮の死去からおよそ25年が過ぎた今、ダンブレックは彼がキャリアを通じて一番仲が良かったチームメイトについて語る。

ジェームス・ニューボールド

1999年の英田で開催されたテストでの事故で亡くなった舘信吾の真のポテンシャルは知られることがないままとなってしまった。1996年のイギリスF3をよく見ていた人間なら、2年落ちのダラーラトヨタをドライブしていた当時19歳だった彼が、アラン・マグルストーンのMagic RacingでクラスBのシリーズ2位となった彼の能力を垣間見ることができただろう。Autosport誌では、彼の訃報記事に「常に微笑んでいる舘は、彼がイギリスで会ったすべての人に強い印象を与えた」とも書いた。

しかし、舘の母国でこそ、彼は本当に輝いていたのだ。彼は1998年の全日本GT選手権GT300クラスのチームタイサンwithつちや(トヨタMR-2)でチャンピオンを獲得した翌年、全日本GT選手権のGT500クラスにチームルマンから参戦するシートを獲得した。1998年は彼の父親の舘信秀がチームを運営していたトムスから全日本F3に参戦し、そこで彼はピーター・ダンブレックと出会うことになった。

スコットランド人のピーター・ダンブレックは1998年に初めて日本のレースに参戦した。1996年のフォーミュラヴォクゾールのチャンピオンは、1997年にはポールスチュワートレーシングからイギリスF3に参戦し、チャンピオンのジョニー・ケイン、ニコラ・ミナシアンに続いてのシリーズ3位を獲得。日本で2年を過ごした後には5シーズンDTMに参戦した。その後は1998年の全日本F3のチャンピオン獲得とマカオグランプリの優勝を含めた1998年の活躍が功を奏したのか、2005年中盤からスーパーGTに参戦した。

ダンブレックは、日本の文化になじむためにしてくれた舘の手助けは、彼が日本のレースで活躍するために不可欠だったと語る。それが、ダンブレックは舘と長い間を共に過ごしたわけではないとはいえ、舘の事を一番のチームメイトと真っ先に名前を上げる理由となった。

「信吾とはすごく気が合ったんですよ」とダンブレックは話す。舘が1995年に初めてイギリスでローワンレーシングのフォーミュラヴォクゾールジュニアをドライブすることになった年には、ダンブレックは入れ替わりでフォーミュラヴォクゾールへステップアップをしていた。

「信吾は、僕がやりやすいように色々気を配ってくれていました。僕が日本での生活にすんなり慣れることができるように、そして自信を持ってやっていけるように配慮してくれていたんです。僕はそのお返しに、僕のF3の経験や走行データをシェアしたり、話し合いを重ねながらチームを前に進めていきました。

当時の信吾は御殿場に住んでいたのですが、彼は英語が上手だったので日本でレースをしていた外国人ドライバーみんなが仲良くしていました。それに彼は感じが良くてていねいで、本当にいいやつだったので、みんなが彼と一緒に遊びたがっていましたね。信吾と僕はサーキットに行くのも、遊びに行くのも一緒。ビリヤードも良くやっていました」

舘自身がヨーロッパで暮らしていた時の経験が、海外から知らない土地に来て慣れない環境でレースをするドライバーへの共感につながったのだろうとダンブレックは語る。

「彼は、スネッタートンではこんなことがあったとか、ロンドンではこんなことがあったとか、英語の勉強をしていた時にはこうだったとか、いろんな話をしてくれました。彼がヴォクゾールジュニアのレースに出ていた時に僕はヴォクゾールに出ていたんですけど、その時の共通の話題も出してくれたんですよ。僕もレースのパドックで見聞きしたこともあるような話もしてくれました。
あと彼は、日本での生活の裏も表も教えてくれました。こんなときにはこうやったらいいとか、こんなことはやったらダメだとか。そして、僕が何か失敗をしても、明るく笑って済ませてくれるような人間でした」

1998年、ダンブレックは10戦中8勝を挙げてチャンピオンを獲得した。舘はシリーズ参戦2年目でシリーズ3位。そしてマカオでは、第1ヒートも第2ヒートも制してはいなかったが、総合タイムは0.003秒差でリカルド・マウリシオに勝って総合優勝を遂げた。そのレースでは舘は上位争いに絡むことはなく13位でレースを終えたが、GT300では逆だった。舘と鈴木恵一ヨコハマタイヤのチームタイサンwithつちやのトヨタMR-2で7戦中で5勝を記録。ダンブレックはA’PEXのMR-2をドライブしていたが、彼が初めてスポーツカーレースに参戦した時、舘のドライブに感銘を受けたという。

「あのマシンに乗った彼はこんなに速いのか、と正直なところ驚きました」
1999年にはF3からフォーミュラニッポンにステップアップをして、ル・マン24時間にはメルセデスCLRをドライブしてル・マンに参戦したが、不運な結果に終わったダンブレックは続ける。
「GTではレース中にバトルをしたことも何回かありましたが、彼の乗っているパッケージの方が自分よりほんの少し良かったんです。F3でタイトルを獲った僕にGT300では勝つことができて、彼も気分は良かったんじゃないですかね(笑)。それはさておき、彼は本当にGTでは速かった。だからいずれは彼のキャリアは、何年かフォーミュラニッポンに乗った後にGTのプロフェッショナルになったかもしれないですね」

鈴木恵一は、F1パシフィックGPを開催したこともある英田でのテストで21歳の舘が事故死した後にレースから引退した。舘が、元F1ドライバーでもある野田英樹と乗るはずだったチームルマントヨタスープラは、おそらくはマシントラブルのために1コーナーでクラッシュし、舘はステアリングホイールによる胸部へのダメージで死亡した。

「岡山の1コーナーはタイヤウォールはあるけれどその手前はダートなので、どこにも逃げようがなく、クッションになるようなものもありません」とダンブレックは語る。
ダンブレックは舘の死去のニュースに大きな衝撃を受けた。今でも彼は、その知らせをどこで聞いたかを忘れていないという。それはAMGの本拠地のアファルターバッハでシートのフィッティングを行っているときだったという。

2020年に現役を引退し、現在はFIAのレーススチュワードとして活躍しているダンブレックにとって、舘のことと言えば、笑いを絶やさない姿と、ユーモアのセンスが忘れられないものだったと言う。

「信吾と僕と、当時のもう一人のチームメイトの藤原靖久とでいつもお互いにいたずらをしあっていたんです」とダンブレックは笑顔を浮かべる。
「あれは彼の得意技だったんじゃないかな。一緒にご飯を食べに行くとだいたい毎回やられたいたずらがあるんです。日本で外食に行くと大体テーブルには調味料が置いてあるんです。それで、食事中にちょっとトイレに行ったりして離席して戻ってきて、何も考えずにお冷のグラスに口をつけたりするとね、グラスのふちにタバスコが塗られているんですよ。唇が焼けるような思いをするわけです(笑)」


という話でした。

私は数回しか舘君と会っていないのですが、彼は感じ良い人だったな~と記憶しています。イギリスF3時代にシルバーストーンで会ったことがあるのですが、気さくな人だなあと思ってます。いや、まああんまり喋ったことないけど…。

今回の記事では舘君がピーターに親切にしてくれたっていう話でしたが、舘君だけじゃなくてお父様の舘さんの方もピーターとかピーターのご両親にもすごい良くしてくださっていたらしいとちょっと聞いてます。

舘君に限らず色んな人の色々な話、黙っていると忘れてしまうのでまた折々にXにポストでもブログにでも書いておきたいなあということがありますので、繰り返し書いていてもスルーしてください…。